ゆず日記

戦う Vimmer 兼 Dvorakユーザ 兼 Kinesisユーザ 兼 おぺらー が戦わないブログ

ゆず月記

4月の。纏めを放棄して書き殴り。

1日

被災した地元へ帰省開始。会社は在宅勤務扱いで。
途中福島のPAに拠るが、PA内のコンビニの物資が水と煙草しかない上購入制限。胸騒ぎしつつ更に北上。
外の景色は殆ど視認出来ないけれど、東北自動車道はガタガタ。

2日

地元付近走行中。津波被害に遭っていない郊外〜駅前間は今までと景観変わらず。
けれど陸上競技場が自衛隊の駐屯地になっていること、中野区のタクシーばりに自衛隊のジープが走っていることに、ただならぬ不穏な感覚を抱きつつ駅前へ到着。

2度目の帰省らしいおっさんが隣の人にでかい声で「ココら辺は大丈夫だけど駅前から酷いんだよ」「ほら、駅前から景色一気に変わったべ?」と被害状況を語り出す。
正直、聞きたくなかった。


駅前から津波の爪痕がどっと現れる。


駅の隣の新日鉄は4〜5m程の積み上げられた瓦礫の山。どうやら処理に困った瓦礫の一時的な置き場としている模様。新日鉄の屋内は遺体安置所になっている。そこに高校の先輩も安置中。駅の横のガードレールには軽自動車が乗り上げたままだった。


駅前でマスクを付けた母と再開。

(治安が悪いって言ってたんだから、家で待ってろって言ったのに...。)

と思いつつも、ほんのり母のありがたみを感じつつ。心做しか余計に老けたように見える。


「町は粉塵が酷くてマスクが無いと外に出れないからねぇ。」
確かに、津波で運ばれた海底の土砂が乾燥し路肩に溜まっている。それが春先の強風で飛ばされ視界が黄色かった。
母からオレの分のマスクをもらい、帰宅する。


帰宅途中の風は、潮の香りと、腐臭がした。




帰宅してから改めて当時の話を聴く。


父: 市役所(元々高台にある)勤務だったので無事。


兄: ↓この動画付近が兄の職場。

地震後、1階の重要な資材を3階に運んだ後、「会社の車を津波が来ない所まで避難させろ」との上からのお達しで車で避難。
信号が停電していることもあって、案の定渋滞に巻き込まれ立ち往生している所に津波が来たらしい。兄はバックミラーに映った津波を見て、「こんな時に海岸側に向かう車は無い筈だ」と反対車線を逆走して助かったそうな*1。あなたが神か。


母: 兄の職場の直ぐ側(海から100mもない)でパート。そこの店主は津波が来るとは思ってなく、地震で店内がメチャクチャになり、仕事にならないからということで帰らせられた為無事だった。


その後は初日のみ避難所暮らしで、2日目以降は家に帰宅して生活してたとのこと。ただし、水道なし電気なしガスなし。最初の2,3日は山で水汲みをして生活してたとのこと。

  • 水道: 2,3日で復旧
  • 電気: 4,5日で復旧
  • ガス: 未だ復旧せず(コレ書いている頃には復活している筈。)

何はともあれ、取り敢えず家族の無事が確認できたので、家族と軽く晩酌して就寝。3時間ほど停電したけどお構いなし。

3日

市街地探索と安否確認。
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↑TVでやたら流れていた映像の場所へも。
それより先は地盤沈下で長靴じゃないと行けなかったので断念。
人気もなく、音もない市街地が物憂げだった。

  • 以前住んでいた家は全壊。
  • 以前住んでいた家の近所で遺体発見、作業中の様子見つめる。
  • 祖母は無事。
  • 同級生は行方不明。
  • 親戚が行方不明でその孫だけ無事。

親戚は、1度目の津波が引いた後、学校に居る孫を迎えに行こうとして2度目の津波に巻き込まれたらしい。そんな人が沢山居るんだろうな。

祖母の家へ向かう途中、隣の町を通った。
隣の町は学校と3階以上の建物以外何も残っておらず、今までは車道からは見えなかった海が、何事も無かったように綺麗に波打っていた。
あれだけ人を殺した海が、何食わぬ顔で今はいつもと同じようにそこに在る姿を見て、どうしようもなく憎らしかった。


夜。別の親戚宅へご挨拶。そちらはまだ停電なので、父がソーラーパネル式のライト差し入れ。ひどく感謝される。その気持ちが分からないでもなかったけれど、半月以上蝋燭暮らしをしたことがない自分にとって、その実感はやや鈍かった。

市街地は、真っ暗だった。

4日

必要物資買出し。直接津波被害に遭っていない地域のスーパーは意外にも物資豊富。会社から貰った見舞金で親戚などへの物資も含め購入。自分の知らない内にメールを回してたらしく、チームの人から見舞金をもらった時にちょっと涙目になったのは秘密。

5日

友人の母親が津波に巻き込まれたのに、気がついたら屋根の上に乗り上げられたらしく、骨折はしたものの無事だったことを知る。何はともあれ命があって何より。

7日

23時50分頃、震度6弱の余震が来る。人生初。3月11日の地震と異なり、縦揺れと横揺れ同時。直下型だから津波の心配は無さそうと思いつつも、財布と携帯電話とライトだけ持って避難。避難途中、近所の人に
「これって避難した方がいいんですかねぇ?」
と訊かれ、(んなの自分で判断しろよ。)と思ったけど、
『避難しておくに越したことはないですよ』


避難所ではラジオしか情報源がなく、情報収集する前に避難した為全く情報が入ってこない。
Twitterでフォロワーの人達から情報を教えてもらった。この時は本当に助かりました。ありがとうございます。


結局津波は大きくないとのことで帰宅。丸1日停電。

上旬のいつか1

訛り完全復活。

上旬のいつか2

昔の彼女から何年振りかのメール。
「家大丈夫だった?」
『こちらは無事だったけれど、周りは軒並み酷いね、特に(親戚が行方不明になった)隣町。』
「私の職場はそこにありました。」
ごめんなさい。

上旬のいつか3

高校の後輩へメール。
『津波大丈夫だった?』
「今住んでるの盛岡ですよ。」
ごめんなさい。

上旬のいつか4

公文の先生の無事を知る。

上旬のいつか5

珠算塾の先生が亡くなったことを知る。

先生の奥さんは
「夫は置いてきた。」
と、一人で避難所に来た。


先生は足を悪くしており、奥さんは2人で車で逃げようと話したが、
「オレのことは良いから、お前だけ逃げろ。」
と言ったらしい。

2人で逃げたらどうなるか、2人共理解していたんだろう。
この話を聞いた時、「2人の冷静な判断力が云々〜」以上のものを感じさせられた。


小学校の頃に通っていたけれど、この年になってもう一つ先生に教えられた。

中旬のいつか1

NPO団体から、死者・不明者1人につき100万円の配布の告知が出る。
(あぁ、不明者は死者と同じ扱いなのか...。)

中旬のいつか2

震度4の地震が来ても平気で2度寝するレベルに達する。

黒いアレコレ

まだLiteな方。
「家があってよかったわー。」(←市の全壊家屋数 3,188棟)
「家族が無事でよかったね〜。」(←市の死者801名 不明者 554名)
「避難所暮らしは大変だもんねぇ。」(←市の避難者 4,130名)
えー。


「物資の配布所に行けばタダで食べモンや服もらえんぞー。」(←津波被害遭ってない人)
『いや、あんた被災してないじゃん。』
「何いってんの、オレも被災者だろ。」
えー。

罹災申請

説明会参加後、罹災申請と実家の瓦礫撤去申請。

瓦礫の撤去は、

  • 公道(←ほぼ完了)
  • 公園などの公共の土地
  • 住宅地

の順で、住宅地が最も広範囲で時間が掛かる。実際に着手/完了するまで何時になるか分からず、それまでは待ちの状態。
安否確認と、行政手続きはひと通り終わったので、東京に戻ることにする。

帰京途中

バスの乗り継ぎの関係で盛岡に5時間滞在。折角なので件の後輩とご飯。
「地震以降、携帯電話の電池交換が多いんですよ。」
『え、なんで?』
「停電の影響だとは思うんですけど...」
『電池の追加購入なら分かるんだけど、交換だけなら殆ど意味ないよね?』
「う〜ん、何ででしょうね。」
お陰で普段より忙しいらしい。


バスの中で積読だった白夜行を読み終える。白夜行が好きだったあの人は無事だろうか。

帰京後

一月程居なかった内に大分落ち着いた印象。
それから、東京の余震のなさにびっくりする。時々地震があっても、揺れていると気付かなくなった。
遅れた分の仕事をガサガサ進めてiPad2を買う。

纏め

被災地でも、所謂不謹慎な会話は多い。


終わり。

*1:後続車両も付いて来たらしい。

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